今日は2020年9月11日、あれからもう19年も経った。2001年の夏は、ボストンのコンベンション・センターの現場事務所からニューヨーク(NY)のラファエル・ヴィニョーリ・アーキテクツ本社への異動が決まり、部屋探しや引っ越しの準備やらでバタバタしていた。少ない荷物をまとめ、NYマンハッタンのアッパー・ウエストサイドのアパートに引っ越したのは8月の最後の週末だったと思う。NYでアパートを探している時に、不動産屋がしきりに勧めた物件はトライベッカのレント・スタビライゼーション(Renta Stabilization)のかかった古いアパートで、まさに映画に出てくるような、例えばトム・ハンクスの「ビッグ」、天井の高いロフト風のカッコ良い部屋だった。レント・スタビライゼーションというのは家賃を一定期間上げない保証のことで、古くからの住民の居住権を守るための制度で、特にNYでは歴史的な街を維持することに貢献していた。分かり易くたとえると、ジェーン・ジェイコブスたちが守ってきたようなローワー・マンハッタンの市民の街を、金儲け第一主義の不動産屋から守る目的がある。ちなみにトライベッカは、芸術家や大学教授などの文化人が多く住むエリアであり、例えば坂本龍一はトライベッカに住居を持つ。トライベッカのアパートはさすがに予算オーバーだったので、結局アッパー・ウエストのアパートの小さな部屋に決めた。
West 100 Street のアパート10階の部屋からの眺め、北側(コロンビア大)方向を見る。「ぼくの部屋からは、セントラルパークとハドソン川が一望できる」と良くうそぶいていたが、半分本当で、”この窓から身を乗り出すと”、右にセントラルパーク、左にハドソン川が見ることができた。このアパートも結構古いが、今でも残っているようである。 2002年12月撮影
9月11日は、まだ慣れていない通勤の手順通りに、W100Stとブロードウエイの交差点のアパートから3分くらい歩き、最寄り駅の96 Streetで地下鉄のレッドラインに乗車し、Houston Streetで下車し、50 Vandam Streetの事務所に徒歩で向かっていた。すると通りが騒然としていた。20ブロック程先のワールド・トレード・センター(WTC)で火災が起こっており、良く見るとタワーに大きな穴がぽっかりと開いていたのである。皆始めは、事故か何かと思って見学していたのだが、その僕らの頭上を、超低空飛行した”2機目 “の旅客機がWTCに向かってまっすぐ突撃したのである。この時、はじめて何者かが意図的に旅客機を突撃させたことが理解できた。ひとまず事務所に入り、テレビの映像を眺めていた。中継では「近代的な高層ビルが崩れることはない」と言っていたし、僕らもそうなることは予期できなかった。しかし中継のカメラが、いとも簡単にWTCタワーの崩壊していく様子を、見事に写し取ったのである。まさに映画のような映像であった。旅客機激突の衝撃に対しては持ちこたえたが、スプリンクラーがうまく作動しなかったため、熱に弱い鉄骨造の超高層ビルが、ダルマ落としのように「きれいに」崩落したのである。崩壊後に起きたことは、承知の通りであるが、約2Km離れた僕たちは、直接粉塵をあびることは免れたが、巨大な積乱雲のような真っ黒な粉塵がじわじわ差し迫って来たので、早々と事務所から避難することとした。
ヴィニョーリ事務所があった50 Vandam Street。ソーホーの隣。この界隈はもともと倉庫街で、古い倉庫の内装を改築し事務所として使っていた。1階は「模型が展示してあるレセプションホールやヴィニョーリ先生のピアノ室など」、地階は「モデルショップ」、2階は「50~60人ほどの所員のメインの仕事場である天井の高い製図室」で構成されていた。良い仕事場であったが、長年の契約が切れて、最近この場所から引っ越したようである。現場まで約1.8km(1.1マイル)程度。ミノル・ヤマサキ設計のツインタワーの抽象的なシルエットはこの辺りからも良く見えた。
当然地下鉄は止まっており、徒歩で2時間くらいかけて、アッパー・ウエストのアパートまで帰宅した。テレビでは「America is under attack」 と放送しており、「また次のテロが来るかもしれない」と、しばらくは皆自宅で不安な日々を過ごした。もし現場に近いトライベッカのクールな部屋に住んでいたら、数か月間、電気も水道も来ないような日々を過ごすことになっていた。ということで、しばらくの間は、仕事にも行かず2~3日テレビを見ながら自宅で避難生活をしていたのだが、平和なボストンにまだ残っていた上司から「ヒロ、いつまでさぼっているんだ!」とお叱りの電話がかかってきた。「地下鉄も動いていないのにどうやって事務所に行くの?」と答えた所、「自転車持ってるだろ!」と言われ、「はい! 直ちに自転車で出勤します!」と、その日からさっそく自転車通勤が始まったのである。
ボストンとNYで乗っていたマウンテンバイク。ボストン時代は、同僚たちと郊外の山(オフロード)を走り回った。
100丁目からひたすらまっすぐ南下していくと、20~30分でおそらく14 Street に行き着いた。するとバリケードを建てて警官が横にずらりと並んでブロックを封鎖をしていた。まさに正真正銘の「都市封鎖(ロックダウン)」である。これでは事務所には行けないと思ったのだが、ここまで来て何もせずに引き返すと、また上司から文句を言われそうなので、おそるおそる名刺を見せながら警官に「事務所がその先にあるんですけど…」と尋ねると、「入っていいよ」とあっさりOKが出て拍子抜けした。マンハッタンは格子状にきれいに整理されているが、古いエリアのローワー・マンハッタンは迷路のようにごちゃちゃしている。14 Street までは東西にきれいに通りが伸びており、グリッド状の都市は、ロックダウンをするのに誠に都合が良い。さて、こんな感じですぐに業務が再開されることとなった。我らがヴィニョーリ先生は事務所では変わらず、冗談をかましていた。イスラム系の所員に際どいジョークを言って笑かしていたのを覚えている。テレビでも1週間も経たないうちに「Get back to normal」と号令がかかり、たくましいNYの人たちはみな通常の生活に戻り始めたのである。地下鉄もHouston Streetまでは、確か1ヶ月もくらいで動くようになったので、自転車通勤もそんなに長い期間せずに済んだ。
その後約2年間、NYで生活することとなった。その期間にグラウンド・ゼロと呼ばれたWTC跡地の再開発のコンペなどにも関わった。日本人は働きバチだとか揶揄されるが、NYの人たちの方がよっぽど働くと思ったものである。当時のNYの話は色々したいのだが、ブログにあげるにはとにかく写真が残っていない。9.11後しばらくはあまり写真を撮る気にもならなかったし、20年前はまだジョブズがiPhoneを発表していない。デジカメの写真もだいぶクラッシュしてなくしてしまった(当時のマックは良く壊れた)。8年程前、WTCの建設現場の現場事務所で働いていた友人を訪れるために、NYを訪れたが、今度はハリケーン・サンディーが来てしまい、予定から2日くらい遅れてようやくNYに入ったが、WTCの建設現場は水没してしまい、結局見学できなかった。NYの同僚や友人たちから、「ヒロがNYに来ると災難が起こる」と冗談交じりに冷やかされた。2年しか住んでいないが、マンハッタンに戻ると、一瞬で10年前に戻ったような、故郷に帰ってきたような不思議な感覚が起きた。
9.11以降、世界はだんだんとおかしくなってしまった。そしてついにトランプがアメリカの大統領になった。さらにコロナが起きた。今年はGSD卒業から20年目なのでボストンとNYに同窓会旅行を計画していたのだが、それどころではない。大統領選の結果も含め、世界に早く「日常」が戻って欲しいものである。
約10年ぶりにNYを訪れた時に、帰りの”ガラガラの”飛行機の窓からこっそりマンハッタン島を撮った写真。建設中のWTCのフリーダムタワーが見える。 2012年11月撮影