東京暗渠アーバニズム 3, 赤坂, 外堀通り

「東京暗渠アーバニズム」の締めは、職場のある赤坂と決めていた。東京には暗渠が無限にあるので、どこかで区切りをつけないと永遠に潜り続けることになる。ということで、いったん暗渠の水底から陸に上がらせていただきたいと思います。おさらいすると、江戸城から見て、1章は城北の鬼門の谷中2章は城西の原宿、締めの3章は城南の裏鬼門の赤坂[地図1]。


[地図1]:「外堀通り」東京 → 新橋 → 赤坂 → 市ヶ谷 → 飯田橋 → 御茶ノ水 → 日本橋 → 東京の全長約13km環状道路、 江戸城外堀暗渠道(一部開渠)。ベースマップ©2020google

 

赤坂と溜池

毒舌で有名な毒蝮三太夫(僕らの世代にとっては、ウルトラマンのアラシ隊員!)が赤坂の飲み屋街にはかつて川が流れていたと話していた。赤坂と言うと、いわゆる「夜の店」がひしめく丸ノ内線・赤坂見附駅から千代田線・赤坂駅までの広大な繁華街が名高い。普段歩いている街だが、どこに川が流れていたのかすぐには思い当たらない。しかしよくよく考えてみると、溜池という地名が残っているように、赤坂三丁目の繁華街は、日枝神社の山の縁(フチ)、外堀沿いの低地/下町である。アラシ隊員が言っていた赤坂の川とは、どうやらこの外堀の周辺に縦横無尽に走っていた水路らしい[地図2]。

 


[地図2]:古地図(明治) ©goo地図

しかしこの赤坂の水路沿いを歩いても、飲み歩きブログになってしまいそうなので、今回の暗渠散歩は、外堀通り(参照:[地図1])をぐるっと回ってみることにする。といっても全長13kmを一気にダイビングすると酸素切れになるので、銀座から赤坂くらいがちょうど良い(参照:[地図3])。

 


[地図3]:外堀通り城南界隈散歩。 銀座数寄屋橋 → 新橋 → 虎ノ門 → 溜池 → 赤坂→ 弁慶橋、約4km。 ベースマップ©2020google

 

銀座, 数寄屋橋

それでは暗渠ダイブのスタート。これまでの暗渠散策はもっぱら広い通りから横丁に入った裏の路地であったが、今回はまさに表のメインストリートである。まずはメトロ丸ノ内線、銀座駅の数寄屋橋の交差点から。久しぶりに銀座で降りたが、地下鉄駅はリニューアルされて小奇麗になっており、真新しい商業施設に迷い込みながらようやくC3の階段から地上に出る。建築家にとっては、ガラスブロックのインダストリアルな外観のエルメスのビルが目印[写真1]。優れた建築であることは言うまでもないが、冬の午前中に見ると、この完全無欠の「きれいさ」に拍車がかかってしまい、機械的で冷たい印象となってしまう。この建築物の素晴らしさを享受するためには、暖かい照明が灯る夕暮れまで待たねばならない。(ピアノ先生すみません、側面の写真しかなくて。)

 


[写真1]「数寄屋橋交差点」右のグレーのガラスブロックの建物が、レンゾ・ピアノ設計のエルメス。最寄り駅「メトロ丸ノ内線、銀座」

 

銀座

外堀通り沿いのヤナギ並木

数寄屋橋の交差点から歩き始めると、銀座の外堀通りは、10階前後の新旧の「ビルヂング」が壁のように軒を連ねる。海外では珍しくないが、銀座ではビルが隣どうしピタッとくっついて建てられており、街路と建物の関係すなわち図と地の関係が明快に規定されており、西欧的なゲシュタルトである。一方、建物の高さや大きさがまちまちなのでスカイラインはアジア的なランダムさも保有する。歩道には、ヤナギの街路樹が植えられていた[写真2]。日本では昔からヤナギのイメージは幽霊の出るような薄暗いじめじめした水辺である。特に銀座の外堀通りは、ビルが東西両側に建て込んでいて、昼間でも薄暗い。明治時代には桜や松など植樹したそうだが、地下水位が高く、枯れてしまったとのこと。それで仕方なく(?)湿地に適したヤナギ並木としたようだが、まさに水の記憶から逃れることができない土地であることを示す。

 


[写真2]銀座外堀通りのヤナギの街路樹。水辺の記憶を象徴する。

 

新橋

のんべいサラリーマンの街

数寄屋橋の交差点から外堀通りのヤナギ並木道を約700m「まっすぐ」南下すると、新橋の交差点に着く。これまでは「くねくね」した自然の川の形に由来した暗渠道を歩いてきたが、ここでは銀座の格子状の町割りに沿った人工の形ということである。新橋と言うと、駅前広場で酔っ払った陽気なオジサンたちがテレビでインタビューを受けるシーンを思い浮かべる人も多いだろう。赤坂と同様、水辺には下町の歓楽街が生まれる種があるということであろうか。もしかしたら「水商売」の語源には、そういう本当の「水」の記憶も含まれているのかも?新橋の鉄道の高架下をくぐると、定番のガード下飲み屋街が裏路地の雰囲気を醸し出していた[写真3]。さすがに午前中からやってないが、「秘密のケンミンSHOW」によれば、大阪だったら朝から飲める所も多々あるらしい。

 


[写真3]新橋ガード下の飲み屋街

 

虎ノ門

高層建築のショーケース

外堀通りを新橋交差点で直角に曲がり、西(北西)の虎ノ門方向へ進む。道幅は少し広くなり、ビルも銀座のような壁のように建ち並ぶ構え方から、公開空地を持ったフリースタンディングの高層ビルが増え、通りも明るくなってくる。新橋のガード下から約900mで虎ノ門の交差点。レトロなレンガの文部科学省(旧文部省庁舎)の建物が構える。すぐ隣には、日本で最初の近代高層建築である霞ヶ関ビルディング(1968年竣工)がある。この地域は、我が国の半世紀前の黎明期から最新の虎ノ門ヒルズまでの高層ビルが集中しており、まとめて日本の近代高層建築の歴史を学ぶことができる。建設技術が向上し、建築表現の選択肢は増えたが、半世紀前の構造合理主義の結晶である霞ヶ関ビルのデザインは純粋である。

 


[写真4]レンガの文部科学省の建物(旧文部省庁舎1932年竣工)

 

溜池櫓台跡

都市の記憶の残し方

霞ヶ関ビルの外堀通りの反対側の商船三井内航の本社ビルの敷地には、溜池櫓(やぐら)台跡の石垣の土台が残っている。溜池交差点はまだ先だが、どうやらこの辺りが溜池の東端のようだ。東京のこのような保存遺構は、関心が無ければ通り過ぎてしまうようなデッドスペースになってしまっているケースが多い。墓石のようにひっそりと遺すのではなく、都市のアメニティ、ランドスケープや建築の求心的なエレメントとして、もう少し積極的に魅力的な都市空間をデザインするきっかけと出来ないか?例えば、鞘堂(さやどう)のように24時間開放のアトリウムの中に内包するとか。文化財なので、本当に実現するには、役所との協議が難しそうだが。ちなみに、この櫓台跡のはす向かいの本丸の文科省の敷地には江戸城外堀跡地下展示室というものがあるようである。再開発などで東京の中心部を発掘すると遺跡が至る所に出てくる。遺跡調査を先に行い、その後に設計に入る余裕のあるプロセスをとらない限り、遺跡を活かすようなデザインは実現しない。

 


[写真5]溜池櫓台跡

 

溜池の低地と屋敷街の高台

徳川家康の都市デザイン

外堀通りは、新橋から虎ノ門までは直線だが、虎ノ門から赤坂見附までは、江戸城の高台の崖に縁(フチ)に沿って大きな弓なりのカーブを描いている。六本木通りとつながる溜池の交差点で、南北走る首都高の高架下をくぐる。低地の外堀では高架の高速道路だが、北の江戸城側はすなわち霞ヶ関の官庁街の高台では地下を走る。江戸城は自然地形を活かしてヒルトップに配置されていることを示す。もともと江戸は「手の付けようのない湿地」で、豊臣秀吉から徳川家康に「意地悪で」与えられたとも言われる。しかし家康は見事な城下町を作ってしまったのである。その優れた都市計画のアイディアと実践は、巧な自然地形の関係とともに、水資源の活用にもある。外堀は単なる淀んだ堀ではない。上流の日本橋川から墨田川まで川の流れを利用して水を循環させた環境設備であり、水運や上水といった生活を支える都市インフラであった。のみならず、外堀は周辺に森や寺社の境内を統合した緑と文化と余暇の回廊でもあった。家康が優れた都市デザイナーと言われる所以である。

 


[写真6]溜池交差点

溜池の交差点を過ぎると、北のヒルサイドに首相公邸や日枝神社の山を右手に見ながら、ようやく赤坂の繁華街に到着である。日枝神社の三角の鳥居は山の神様を象徴しているが、溜池を見渡す水辺の神社でもあったのである。

追記:隣の大階段、映画ロッキーの舞台のフィラデルフィア美術館の階段のような、の鳥居より、こちらの鳥居の方が風情がある。

 


[写真7]日枝神社

 

赤坂, 路地裏暗渠

さて、ようやく赤坂に着いたので、さっそく赤坂の街に流れていた水路を見つけなければならない。江戸時代の古地図によると外堀のすぐ横を走っている細い水路がある。この水路を探してみよう。横丁を入るとビルに囲まれた細い路地を見つけた[写真8]。排水ドレン側溝もあるし、この路地が暗渠だろう。まさに川に背を向けてビルが建ち並ぶ昔の渋谷川的な風景。暗渠を見つけるのが上手くなって来たようだ。アラシ隊員、この川でよろしいでしょうか?

追記:この辺りの地形は、最も低い外堀通りから、南西の六本木方向に向かって段々と標高が上がる。かつては多くの水路が外堀に流れ込んでおり、外堀通りに直行する南西から北東つまり短辺方向の横路地は暗渠が多いことに気付く。外堀に平行して走る長い暗渠を探していたが、そういえば、赤坂の横丁(短辺方向の路地)はみな「何か」雰囲気がある。

 


[写真8]赤坂の暗渠路地

 

赤坂見附, 弁慶橋

だいぶ歩いたし、もうここで事務所に戻ろうかと迷ったが、まだランチまで時間もある。せっかくここまで来たので、赤坂見附の弁慶橋の開渠まで行ってみよう[写真9]。坂の上には赤坂門の石垣の史跡が残っているが、見附とは城内への見張りの門である。基本的に見附は堀の橋のたもとに設置された。江戸にはたくさんの見附が設置され、特に赤坂見附を含め、江戸城三十六見附は名所とされた。先の虎ノ門やこの先の市ヶ谷も三十六見附の一つである。ここから先はいったん外堀公園の暗渠に戻り、再び市ヶ谷で開渠が始まり、上流の神田川の開渠に接続する。御茶ノ水を流れる神田川は、外堀として築かれた人工の渓谷である。

 


[写真9] 弁慶橋、赤坂見附

弁慶橋のたもとには釣り堀がある。この堀は三日月型をしており、両側には外堀公園と赤坂御所の緑、首都高のカーブとビルに囲まれた、自然と人工の造形が多層的に織りなす不思議な空間である[写真10]。市ヶ谷にも、しばしば映画やドラマのロケで使われる有名な釣り堀があるが、都会の釣り場はシュールで絵になる。

 


[写真10] 弁慶橋のたもとの釣り堀

ラストショットは赤坂見附交差点の陸橋からの眺め[写真11]。直下を走るのが、青山通りと外堀通りの立体交差、上が首都高4号新宿線外回り。少し離れて右の外堀の森の縁(フチ)を走っているのが、首都高新宿線の内回り。お堀の水と緑、石垣、高層ビル、高速道路のカーブと立体交差の錯綜、とても東京的なSF的な風景である。銀座から赤坂まで外堀暗渠を巡ったが、現代の東京の都市景観のグラウンドには家康の意図と演出が埋め込まれていることを改めて実感することができた。しかし、この卓越した都市デザイナーにも、果たして、この高速道路の高架と高層ビルに上書きされた400年後の風景を想像できたであろうか?家康さんなら、もしかしたら想像していたのかもしれない。

 


[写真11] 赤坂見附、首都高の立体交差

12.07.2020  新野裕之

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